こんにちは、イラストレーター・絵描きをしている、ひころーるです。
イラストレーターに関しては、勝手に「ひころーる」と名乗ることにしてみました。
知ってる人は知っていると思いますが、私は仕事柄・・・映画やドラマが大好きです。
しかも海外作品が大好きで、イラストと合わせて映画をレビューしたり、ただイラストの過程を報告したりしています。
今回は別件でお話しを
2024年11月13日東京都杉並区の病院で老衰のため旅立った、現代詩の詩人、谷川俊太郎氏。
訃報を受けたのはニュースで流れた11/19。
今回は、消えゆく私の記憶のために記す時間となることをご承知ください。
人生で1番最初に触れた谷川俊太郎さんの詩は、
小学校の教科書にも入っていた「いるか」という詩。
ずっと記憶に残っていた。
それから、教科書で触れる程度の詩との関わりの中でした。
転機は、2011年の東日本大震災。
俳優をするようになって、脚本を書いたり演出をするようになって、10年程度経った頃。
色々な詩に出会い、そして再び谷川俊太郎さんの詩に心を揺さぶられた。
詩集「二十億光年の孤独」から、いくつもの光を感じ、また当時の私の憤りを代弁していたものを感じました。
そして、朗読劇を私は脚本家として生み出し自ら演出した舞台において、谷川俊太郎氏の詩を入れ込みながら作り上げたのでした。
それが、とあるアートイベントをきっかけに、谷川俊太郎さんをご紹介いただいたのが初対面となったのです。
それは杉並区のとある教会で演奏されたピアニストの谷川賢作さんと谷川俊太郎さんのコラボイベントでした。
その際に、持って行った詩集にサインをしてもらい、大満足した次第。
ご縁は繋がりその翌年、私が総合演出した舞台に谷川俊太郎さんにゲスト出演していただき、しかも共演をさせていただく機会を得ました(何とか作ったと言っても過言ではありません)。
とても身に染みた時間だったことを追悼の念と合わせて、お伝えしておきたいと思います。
また、その気持ちをここに記しておきたいと思いました。
本当にありがとうございました。
目次
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!きっかけは2011年に遡る
2011年東日本大震災後、日本政府の対応や行動のおかしさ、それ以前のことも踏まえ国民主権が危うい状況であることが分かってきました。
2005年頃に貧困問題を扱った脚本を書いたのきかっけに政治について多くの事を演劇で語ってきた経緯があります。
新宿派遣村は民間が動き出して広がった行動、貧困と隣り合わせの世界、資本主義のアンバランスさ。
どこみて動いてる世界なのか、1人の人間としても作家としても憤りを感じていたのです。
その中で手探りで情報を得る中で、震災時に度々流れたJCのCMで、故郷山口県の詩人こと金子みすゞさんの詩。(金子みすゞ記念館もご参考ください)
詩が言葉とインスピレーションでハートを貫く力があることをひしひしと感じた瞬間でした。
そうこうしているうちに、坂本龍一さんのコメントか何かで茨木のり子さんの詩「汲む」に出会ったのです。
そして詩集を読み漁るうちに、茨木のり子さんから(詩集の巻末コメントなど含め)、自然に谷川俊太郎さんの詩に出会いました。
『これが私の優しさです』に手を伸ばしました。
それは出会いというよりも、谷川俊太郎さんの詩との再会でした。
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!「いるか」「朝のリレー」
言葉遊びうた「いるか」がフラッシュバックしたのです。
小学校1年生の教科書の中、ひらがなでそれは全て書かれていて、水色の模様が描かれたページと可愛いイルカのイラスト。
それらが、一気に思い出され、これも教科書で読んだ「朝のリレー」も思い出した。
いや、「朝のリレー」は教科書じゃなくてCMだったか、でもそれ以前に知っていた。
するともう走り出していました。
『二十億光年の孤独』(創元社 1952)
『これが私の優しさです』(集英社文庫、1993年)
『夜のミッキー・マウス』新潮社 2003 のち文庫
『谷川俊太郎詩選集』全3冊 田原編 2005 集英社文庫
などとにかく、手当たり次第に読んでいった。
特に『二十億光年の孤独』と『これが私の優しさです』の中にある詩が生と死、命、宇宙といった根源のようなものを感じさせてくれたのです。
そして、谷川俊太郎さんの詩「朝のリレー」からのインスピレーションを得て、誰も見たことのない朗読劇を作りました。
その物語には、谷川俊太郎さん、金子みすずさん、茨木のり子さん、三好達治さんの詩をたくさん引用し、紡いだ物語でした。
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!平和イベントへ発展
2017年頃より、杉並区在住の被爆者の方々の手記を朗読するイベントに携わり、杉並区議員の方とホールでイベントをしたのがきっかけで、あちらこちらでイベントを企画・制作する機会を得ました。
そこでも、人が繋がる詩として、「朝のリレー」は大きな役割をもたらしていました。
まさにその詩が、お客様と演者と世界を繋いでいるかのような感覚です。
また別の学校公演のイベントでも、「朝のリレー」を使って人類の繋がりを示唆しました。
影響をそのままに。
※まとめた詩集のほとんどに「朝のリレー」は入っていると思います。
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!谷川俊太郎さんと電話
とあるきっかけで、直接私は谷川俊太郎さんに電話するという機会を得ました。
杉並区の某施設での話。
私がそこで、絵の展示を準備していた時のこと。
そこで出会った方が阿佐ヶ谷アートストリートのイベントの主催者でした。
その方に谷川俊太郎さんと谷川賢作さんのお話しを聞きました。
そこで私は区議会議員の方と朗読イベントをしているが、舞台で詩を使ったりしているけども、著作権確認せずに使用していたことを伝えた時のこと。
「だったら直接、電話して相談したら?」
と言われたのです。
後日、谷川俊太郎の自宅TELを教えてくれました。
ドキドキしながら、「本当に電話番号もらったよ」と驚きながらも思い切って電話してみました。
私「あの、演出家、俳優やっています山縣有斗と言います。」
T氏「ああ、〇〇さんから聞いてますよ。」
私「実は舞台で谷川俊太郎さんの詩を朗読や暗唱でよく使用しているのですが、勝手に使用してすみません。いつか、ちゃんと確認しなきゃって思っていたんです。」
T氏「全然大丈夫ですよ。ぼくは商業的なものでなければ全然許可していますから。好きに使ってください。」
私「あ、そうですか!ありがとうございます!」
そんな会話で終わったように思います。
ひょうひょうとした、そんな感じだったと記憶しています。
その後、阿佐ヶ谷近くに住んでいた私は、ちょいちょい買い物帰りの姿を見ましたが、特に話しかけずプライベートなので見送っていました。
初会話は電話だったのです。
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!阿佐ヶ谷アートストリートのイベント
そうこうしているうちに、阿佐ヶ谷アートストリートで平和をテーマにした舞台をする企画をいただき、杉並公会堂で総合演出をすることに。
そこでは、共同主催として「ここなみ舎」で、谷川賢作さんがミューカル曲を手掛けたりと繋がりのあるZEROキッズの子ども達、そして谷川賢作さん繋がりでヴォーカリストの上畠尚子さんをご紹介いただき、上畠尚子さんが指導している合唱チームDreamVoice、ゆう杉並オフィシャルボーカルチームの参加が次々に決定しました。
そして、演劇として全体構成を考える中で、正義について問うシンプルな物語を書き、kan promotionの俳優たち、ゲストたちを交えて物語を構成。
スペシャルゲストとして、谷川俊太郎さんの出演も決定し、ぜひ一緒にステージに立ちたいと思い、共演する時間を作りました。
谷川賢作さんに間に入っていただき交渉して、実現した夢のステージなのです。
しかし、大トリは谷川賢作さんのピアノとここのみ舎の群読の共演。
アートで平和を訴えました。
その時の様子はこちから「『More Than Words ~音の波~』3歳~87歳までの共演!杉並公会堂小ホール」ご確認ください。
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!「生きる」をリレー朗読
群読というよりは、1行1行リレー形式で読んでいくというシンプルな構成。
「生きる」を読みながら・・・
同じ舞台に立っていること。
これだけでかなり胸弾んだ時間でした。
そう、お互いに「生きていた」という共有時間。
終わった後に記念写真を撮影したかったのですが、疲れもあり、終わった後は早々とご自宅に帰ってしまわれました。
総合演出をしている中、片づけなど含め、仕事も多く、感謝のご挨拶もそこそこに終わってしまったのです。
もう少しお話ししたかったなぁと悔やまれる部分もありますが、貴重な時間となったことは胸に刻まれました。
詩人、谷川俊太郎さんとの思い出!-まとめ-
そんなふうに多くの方が関わってくださった企画・制作のイベントでした。
阿佐ヶ谷アートストリートの主催の方との出会いは、
同じく杉並区でBATA ART の展示で私が絵を展示している会場での出会いでした。
そこでたまたま打ち合わせをしてた方が主催者で、
お話しするうちに、とんとんと話が進んでいった記憶があります。
また、杉並区議員の方と一緒に平和をテーマに平和都市宣言をした杉並区でいろいろと朗読イベントをしていた経緯もあり、話がスムーズだったと思います。
それから、谷川賢作さんと繋がり、谷川賢作さんが動くならといった感じで、次々に新しい出会いに恵まれ、出演者がどんどん増えていきました。
そこで私の所属する芸能事務所kan promotionの俳優達にも協力いただき、音響・照明までお世話になってきた方々に手伝ってもらったりながら、実現した舞台でした。
ご縁の力の凄さ、というかパワーを感じた時間となっています。
そして、それらのご縁は今も続いています。
詩とは長く共演し、多くの時間を使い、多くの音色となって、世に放たれました。
今も私は、これらの詩と共にあります。
谷川俊太郎さんは旅立ちましたが、残された詩は残っている。
私は平和についてモノローグで伝える時間を大切にしていました。
「生きる」の詩の中で、「今どこかで産声があがるということ」と「今どこかで兵士が傷つくこと」が並列で並んでいたことが・・・それが並列であることに違和感や連鎖やら何やら刺さり続けているのです。
そして、この時、妻のお腹には私たちの子どもが宿っていました。
「すべての美しいものにであえるということ」
それを不条理の中、矛盾の世界の中、でも見てほしい世界であり、であえることの確信めいた希望として、胸に抱えました。
改めて感謝です。
ありがとうございました。
死の先に興味をお持ちでしたので、きっとエンジョイして書き留めようとしているのではないでしょうか?
またお会いしましょう。